ストレンジャーシングス3

観終わった。

フィクションの時代考証にやたら力を入れて評価したり批判したりする人いますよね。

僕は少し前のことも全然覚えていないので、時代考証など割とどうでもいいのですが。

俺たちは雰囲気でフィクションを観ている。

 

土日で一気にシーズン2まで観終わったけど、二日間誰にも会わなかったので言語野がダスティンに支配されてしまっていた。つまりson of a bitch とbullshitしか口から出なくなってた。下品なスピードラーニングだ。

 

ダスティン、良いですね。

ロビン、可愛い。

ドラマを全然観ないからオマージュとかがさっぱり分からなかったけど、次観た時に分かることが増えてるといいなあ。

オマージュといえば、シーズン2でエルがアレで扉を閉めるシーン、アナと雪の女王の劇中でエルサが『Let it go』を歌い終わって扉を閉めるシーンのオマージュですか!?エルサが人々に対し心を閉ざして城に籠るシーンとエルの心情を重ねてるんですか!?

まあ stranger things beyondであのシーンは現場のアドリブでできたって言ってましたけど……

こういうことをずーっと語り合っていたいし、Dangeon & Dragonsをずーっとやってたい。

あ、シーズン3でウィルのD&Dがエリカに渡るシーンはトイストーリー3へのオマージュ……?

 

もう一回全話観直そうかな。

ストレンジャーシングス

観だした。まだ1-2だけど。

ストレンジャーシングスの感想ではないけど、洋物のドラマ、急にちゅーしだしたりするから恥ずかしくなって見れなくなってしまうことが多々ある。

なんであんなことするの?

人に見えないところでやるよう教育されないの?

と考えながらここまで観た。面白い。もっと観たい。

 

社会人になって、休みの日に映画とかドラマに没頭することができなくなってしまった。

「限られた時間なのにもったいない」という意識があるんだろう、再生ボタンを押す指が重くなってしまう。

とはいえ三連休もまだ初日、たまには未知なる世界に飛び込んでみるのも一興だろう。

友達が泊まりに来た。

部屋の電気を消して寝転がって種々のことを話していると、僕の好きだった人の近況の話になった。

僕は彼女と疎遠になってしまったが友達はまだ関わっていたようだ。

相変わらずで元気そうな彼女の様子を伝え聞き「へぇそっか、ならよかった」と言った、事実そう思った。

彼女に告白できないまま会う回数は減り、ラインも徐々に返ってこなくなって、遂に一年以上前から返信が途切れた。

話す機会がなくなると彼女が頭に浮かぶこともなくなる。自然彼女を思い出すことは減っていた。ほとんど忘れていたと言ってもいいだろう。

それでも、友達が帰った後ぼーっとしていると「彼女に似合う人間になるために頑張ろう」というポジティブな言葉が浮かび上がった。いや、今後どうなろうと僕と彼女が結ばれないであろうことを考えると盲目的で悲しい言葉なのかもしれないが。

実践にうつせるかはさておき、この腐りきった数年の生活の中で、この思いだけは本物だという強い確信がある。

柄じゃないけど、いつか素敵な男になって彼女の下に現れるのも良いかもしれない、なんて思っている。

20170427

起きて用意をして名古屋へ向かった。

名古屋ではつけ麺を食べに行ったが、提供終了しているとのことだったので煮干し醤油ラーメンを食べた。おしゃれな器に添加物一切無しみたいな平麺と不純物ゼロみたいなスープが入ってその上にはなんかパテが乗ってた。しゃらくせえ。「お味を変えたい際はペッパーオイルをお使いください」と書いてあった。しゃらくせえ。でも美味しかった。

名鉄名古屋駅からセントレアへ向かい友人と合流して近くのイオンへ行き、大したことはせずまた空港へ戻った。

空港で待っていた別の友人と台湾料理の店へ。美味しかった。ポケモンGOがはちゃめちゃ捗る環境だった。

そして時刻になったので飛行機に乗った。今この文章は上空12000フィートで書いている。フィートって言いたかっただけだ。

さあこれから何が起こるのか、あとでこの文章を見て思い出せる程度には書いていきたい。

LALALAND

倫敦へ向かう飛行機にてアマゾンプライムで絶賛配信中のLALALANDを観た。

 

個人的にはセブがオーディションの話を持ってきた翌朝にミアが結局はセブの車に乗りオーディション会場へ向かうシーンが印象に残っている。どれだけ失敗して落ち込んでも諦めきれない夢を持っている人がいる。そのことが励みになったというか、嬉しかった。夢ってそんな小さいもんじゃないんだよな、やっぱり。そしてミアがセブの車に乗るシーンの淡白さも、「夢を持ってる人が簡単に諦めるわけないでしょ」と言われてるみたいで、分かってるな〜と頷きまくった。

逆にめちゃくちゃ時間をかけて描写されていた、ミアが夫と一緒にセブの店に来てから最後までのシーンは、このシーンを見せたくてそれまでのシーンを監督は作ったんだろうな、と思うほどの詰まり具合だった。このシーンの最中ずっと「セブとの結婚の方が正であれ」と願いながら観るほど感情移入できた。

いやー良かったなー。

湯を沸かすほどの熱い愛

倫敦へ向かう飛行機の中で、我らがアマゾンプライムにて鑑賞。

色んな愛を見せられる映画だった。

子供への厳しくも見える態度、出ていった夫がよその家で作っていた下手なカレーを手伝ってあげるということ、自分にないものを多く持つ若者を罵りながらそれでも見せる優しさ。

ふたばさんは本当に愛に溢れるキャラクターだった。

1番声をあげて泣いたのは、あずみに手話を教えていた理由が分かった瞬間だった。あずみが本当の母親と話ができるように、その母親はあずみを産んで逃げた人なのに。

本当に色々な愛があった。ふたばさんからのものも、ふたばさんへのものも。それらの全てが温かく、だからこそ観ている僕らの心を沸かすほどの熱さになったのだろう。

 

オダギリジョー若く見えすぎでは?あと松坂桃李も良かった。

寂しさ

どうしようもなく寂しさを感じる。

どうしようもないから寂しさを感じるなのかもしれないが、どちらでも良い。

 

本当の意味で人は一人にはなれない、誰しも誰かに助けられて生きている、というような言説がある。

それはまあそうだとして、それでも僕たちはどうしようもなく寂しさを覚える瞬間がある。

誰かと楽しく過ごした後、生の後先について考えてみる時、別になんということもないタイミング。

 

寂しさは、心を満たすか、他の何かのおかげで気にならなくなることで、視界からいなくなる。でも、寂しさが消えたり無くなったりすることはない。寂しさを解消するなんてきっと誰にもできない。

寂しさは可哀想だ。姿を見せれば疎まれ、形が見えなくなれば気にも留められない。

まるで僕みたいだ。

ああ、寂しさって僕なんだ。

どれだけ他の人と楽しく遊んだって僕は僕のままだし、僕を解消するなんて僕にはできない。

ふとした時に僕は僕と向き合うし、僕は僕を離れて一人になんてなれない。

だから僕はどうしようもない僕をいつも感じるし、どうしようもないから僕を感じるんだ。

もしどうしようもない僕がどうしようもなくなくなったら、僕が僕と親しむことができたら、その時僕の寂しさはどうなるんだろう。

部屋で寂しさを撫で回しながら考えてみようか